2011年3月11日の震災以降全国の様々な施設や団体などから、「賢治さんの事を何か話して下さい」と声を掛けていただく機会が多くなりました。私は賢治の弟の清六の孫で昭和39年生まれなので、勿論昭和8年に亡くなった「賢治さん」には直接会ったことはありません。「賢治さん」のことは祖父から或いは母から聞いたことしか解りません。そのようにお伝えするのですが、「それでも良いから話して欲しい」と言ってわざわざ呼んで下さるのです。それでも正直、私は何か申し訳ないような気持ちが先に立ち躊躇するのです。それは、「実際に賢治に会ったこともない私が『賢治さん』の事を話して良いのか」が理由です。
今回の震災のあと「雨ニモマケズ」が様々な所で発表されています。ですので、講演の時には祖父、清六から聞いた「雨ニモマケズ」について必ず話しています。祖父が教えてくれたのはこんな内容です。
「賢治さんの作品は童話と呼ばれている作品群と詩の作品群の二つに大きく分けられる。童話は賢治さんが自分なりに解釈した『法華経』を伝える方法として取っている、だから作品には『私』が極力入っていない。詩は自分を表現するための形として取っている、だから私的である。でも『雨ニモケズ』はどちらにも属さない。なぜなら他の作品はいずれ本にして皆に読んで貰いたいと原稿用紙に書いているが『雨ニモマケズ』は賢治さんが亡くなる2年前の11月3日に書かれたであろう文章で手帳に書かれている。結核がかなり進行し、死を意識しつつそういうふうになりたいがなれない自分に対して書いた文章で人に見せるつもりは無かったであろう。でも文章中の『行ッテ』という言葉が一番大事だから世の中に出そうと考えた。」
このように教えてくれました。
賢治さんにとって「法華経」は実践の教えであり人として生きていく上での羅針盤で、行動が伴わなければ意味が無いと私なりに解釈しています。
祖父がしきりに言っていたのは「『雨ニモマケズ』が賢治像の大半になっていくのは困るな、あれは賢治さんの一部ではあるが本来明るく楽しい人だったから。一番困るのが、賢治さんを神のように祀りあげることで、それは本人が一番嫌がることだな。」ということでした。また「作中最後の『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いているように、それは賢治の理想であって、実際成ったのではない。ましてこういう人間に成りなさい、こう生きなさいなどと人に教えるような事は賢治さんは望んでいないな。」とも言っていました。
震災のあと「雨ニモマケズ」は被災者に向けて発せられただけではなく、そこに向かっていったい自分は何が出来るのだろうかと考えて行動している人達みんなの気持ちを代弁していると思います。だから今「雨ニモマケズ」が多く引用されているのだと私は考えます。
宮澤賢治碑第1号の花巻市桜町の「雨ニモマケズ」詩碑は高村先生の揮毫による「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ・・・」からの後半部分が刻字されています。何故後半部分なのか。それはやはり「行ッテ」が大事だからなのだと考えるのです。