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       第141回「生と死のセミナー」
    

 
「看取るということ
   ~現代の文明病との関わり~」


      嶋田 順好 氏
                   宮城学院学院長
            仙台ターミナルケアを考える会副会長
           

 

1.大量の情報の氾濫―言葉のインフレーション、本当の対話の喪失―

「おいでよ、一緒に語り合おう。語る者、その人は死んでいない。」エバーハルト・ユンゲルという神学者の心に残る言葉だ。本物の対話、命の言葉が、人の心を潤し、生かす。しかし、私たちの生活世界の中から、いつの間にか命の言葉、真実の対話、本当の団居が失われてしまったのではないだろうか。

誰もがスマホを持ち歩き、いつでも、どこでも、誰とでも遠慮会釈なしに話すことが容易になった今日、膨大な量の言葉が行き交うようになった。しかし、そこには言葉のインフレーションとも言うべき事態が生起している。言葉は溢れ、情報は溢れているが、一つ一つの言葉の価値が痩せ細っていくのである。いつのまにか真剣に語られ、真剣に聴かれる言葉がなくなり、独り言でしかない対話が溢れている。その現実を預言者的に警告したのがポール・サイモンの“The Soundof Silence”であった。

 

2.聴き入ることの難しさー牧会カウンセリングの授業からー

対話ということで私には忘れられない経験がある。修士1年で「牧会カウンセリング」の講義を受けたとき、ロールプレイをさせられた。私は牧師役、同級生の友人が成績最下位の営業マンで、婚約者にも振られ、深く落ち込んで相談に来るという設定であった。やりとりが録音され、文章に起こされ、翌週の授業で分析検討されることになっていた。検討会の冒頭、指導教授から「嶋田君、君はどうしてこんなに明るい声で時候の挨拶をしたのか」と問われた。たまたまその日は五月晴れだったので、クライエントの気持ちをときほぐそうと思って明るく声を掛けたのだと返答したところ。「クライエントは深く落ち込んでいるのだよ。そんな元気に時候の挨拶をされたら『すこしも私の気持ちを理解してくれてない』と思って、心を閉じてしまうかもしれないよ」と指摘されたのである。

意表を突く先生からの一撃にうろたえるしかなかった。それまで私は対話することに自信を持っていた。要するに相手の話をよく聴き入ればいいのだなと高を括っていたところがあったと思うのだが、その後のやり取りを分析していくなかで浮き上がってきたのは、結局、私は彼の心を聴き取ることはできず、すれ違いのやり取りが続くだけだったということである。最後に先生が「嶋田君、確かに君は聞いているよ。しかし、聞いている振りをしているだけで、聴き入ってはいないね。自分の聞きたいことを聞き出し、相手を自分の問いで操作しているだけで、相手の心に聴き入ることはしていないね」という厳しい指摘を受けた。やおら先生は黒板に「聴く」という字を大書し、キリスト教的な観点から自己流に解釈された。「この字には耳と目(横になって)と心が含まれているでしょう。しかも、十字架もきちんと入っていますよ。つまり聴き入るという行為は、キリストの愛にならって心と耳と目を総動員して初めて可能となる行為なんだね」というもので、生涯、忘れえぬ講義となった。

 

3.真実の人格的関係とは

     人格的真理と自然科学的な真理

「我と汝」の関係は、生ける主体同士の関係性を指しているが、「我とそれ」という関係は、主体と客体(物)との関係性を指すときに用いられる。「我と汝」の間で成り立つ真理を人格的真理と言うことができる。他方「我とそれ」「我と物」との間に成り立つ真理は自然科学的真理と言えよう。不思議なことに現代の人間は、真理と言えば自然科学的な真理のことしか念頭に浮かばなくなってしまった。しかし、私たちの日常で経験する人と人との関わりは、すべからく人格的真理によって成り立っている。それなら自然科学的な真理と人格的な真理との間には、どんな違いがあるのだろうか。

自然科学的真理の世界とは、端的に「実験し、証明する」ことができる世界で、対象を理性のもとに徹底的に分析し、支配することが可能となる。しかし人格的な真理の世界は生身の人間同士の関わりの世界だから、相手をあたかも「物」のように扱って実験することは許されない。そこは証明ではなく証言によって成り立つ世界と言えよう。

 

     人格的真理が成り立つ条件―啓示と受容に基づく信頼関係―

それでは人格関係が成り立つために必要な条件とは何なのだろう。それは以下の二点につきる。「相手に心を啓いて真実を語り示すこと」、「相手から語りかけられた言葉を信じて受け容れること」、つまり「啓示」と「受容」に基づく信頼関係で成り立つ世界ということにほかならない。

たとえば、誰かから明日の午後2時に仙台駅2階コンコースのステンドグラスのところで待ち合わせをしようと言われたとき、相手の言葉が本当かどうかを確かめようとして「申し訳ないけど、あなたが明日の午後2時に本当に仙台駅まで来られるのかどうか確かめたいと思うの。悪いけど、あなたの手帳のスケジュール表をみせてくれる。他の約束をその時間帯に入れていないか確認させて」と言ったら、相手の人は、どんな気持ちを抱くだろうか。二度とこんな人と付き合いたくないと思われるに違いない。

「信じる」の「信」は、「イ」に「言」と書く。その人の存在と語る言葉が一つになっている時、その人が語る言葉は受容される。その時、その人は信じられる存在になる。さらに信頼されるためには「誠実」でなければならない。誠実の「まこと」という漢字は、「言」が「成る」と書く。語った言葉に裏切りがなく、語った言葉が、その通りに成就するということであろう。このことが成り立たなければ、信頼に満ちた人格関係は生まれてこない。

ホスピス・ケアで求められることは疼痛ケアを中心とした確かな医学的な知見と共に、クライエントを生ける人格的な主体として信じ、受け入れ、啓示と受容にもとづく信頼関係を構築する愛にもとづく全人的なケアではないだろうか。


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遺族の会 ふれあい
ホスピス 110番
仙台ターミナルケアを考える会