聖書はキリスト教の聖典として全世界で最も広く読まれ、多くの人々 に慰め
と喜びと希望を与えている。人生の目的は「永遠の命」に入ることであり、そ
のためにはどうすればよいかということを長いユダヤ教の 伝統の中から育った
一人の人物、イエスが身をもって示した。
しかし、この言葉自体、実は形容矛盾であり、意味不明だ。日本語の命とは
生物を生かす根源的な力のことであり、受精から死に至る有限の 現象である。
一方、永遠とは始めも終わりもないことだから、永遠の命 とは我々の存在する
次元ではあり得ない。それで古来死後の異次元の世 界のことだと考えられ、天
国とか来世のことと理解されてきた。
しかし、死後のことは観測不可能であり、これをもって人間の幸せの 究極の
姿とするのは現代人にとって説得力が薄い。新約聖書は古代のギリシャ語で書
かれていて、永遠の命という訳語の もとになっているのはゾーエー・アイオー
ニオスである。これを検討すると、ゾーエーは命の意味もあるけれども、実は
「生活すること」であり、しかも「元気で明るく幸せに暮すこと」がその本義
である。
アイオーニオスは時間を超えた、時間に縛られないことだから「いつでも」
と訳すことができる。これはアイオーン(一生)という名詞由来の形容詞でも
ある。永遠の命と訳されているこの言葉は、「一生の間いつでも明るく元気で
幸せに暮すこと」という意味に理解することができる。聖書が言わんとしてい
ることの本義はこれだと思う。
そのためにはどうするか。イエスの説く教えは単純である。互いに相手を徹
底的に大事にせよ。この一つだけだとする。
これは従来の訳では「互いに愛し合え」とされている。日本語の「愛」はあく
までも好き嫌いの問題で、原語のアガパオーの意味を正しく伝えていない。こ
れは好き嫌いに関係なく、相手を大事にすることで、極めて意志的な行動を言
う。嫌いであっても構わない。むしろ自分の嫌いな人を大事にしてさしあげる
ことは、好きな人を大事にするよりも遙かに称賛すべきことである。
ターミナルケア、末期のお世話に携わる者の心得は、徹底的にその方を受け
入れ、大事にし、それによって生きていることの喜びを互いに共有しあえるよ
うに働くこと。これが「永遠の命に入る」ことの意味である。