1.序:なぜ「予期せざる死」を取り上げるのか
東日本大震災がわれわれに問いかける問題は数多存在する。その中でも、家族や親友など近しい人の死をどのように受け入れるか、という問題は深刻である。その死は、突然に遭遇する「予期せざる死」であり、本会がこれまで主な対象としてきた癌による死、「予期せる死」とは対極的な死である。しかし、まさに対極的であるがゆえに、それを分析することを通して、本会の中心的課題への理解を深められないだろうか。
2.日本人の死生観、そして災禍の解釈。
佐藤弘夫(2012)によれば、中世社会では仏教教学が広く受容され、「宇宙の根源に救済を司る超越神が実在し、その計らいが世界を動かしている」というのが人々の基本認識だった。近代社会になると、社会の世俗化と神仏の地位の低下が生じ、人々は、まずは浮世の生活を存分に楽しみ、死後もこの世の一角に安らかに眠って子孫と親しく交渉を続けることを思い描く。しかし今日では、生と死の間に厳密に越えられない一線が引かれ、生者の世界から死者を完全に排除しようとする。死者はもはや対等の会話の相手ではなく、一方的な追憶の対象にしか過ぎない、という。
3.死の受容(情緒的側面)
しかし、現代においても、「死者が追憶の対象に過ぎない」とは言い切れない事象が存在するのではないだろうか。羽黒修験道の山伏は、「人は山で再生する。死者の魂は月山にいると信じる。」また、「肉体は土に帰るけれども魂は生きており、祖霊神となってわれわれを守ってくれる」と考える。しかし、このような考えは宗教者に限らない。津波で亡くなった人を湯たんぽや毛布で温めようとしたり、土葬に反発したりする行為からは、遺体は単なるものではなく感覚や感情を持っていると感じ、その感覚に沿って行動していると推定できる。遺体を確認するまで行方不明者を捜索する、ということからも、遺体との対面が死の受容にとって重要なプロセスであることが確認される。人々は、どこかで生きていることを望みつつも、その一縷の希望をゼロにすることを求めるのである。親しんだ姿の遺体でなくDNA鑑定で確認された小さな骨片であろうと死の証拠を確認し、「寂しかったでしょう。帰ってきてくれてありがとう」と涙ながらに安堵する。人間は、生死が不明だという曖昧な状況に耐えられないのである。
事故や犯罪の現場に花束を携えて来る多くの人は、被害者が「天国で安らかに眠る」ように祈り、さらに、「自分たちを天国から見守ってくれる」ように祈る。彼らにとって、「天国」とはどのような存在なのだろうか。彼らにとっても、死者は単なる物体ではない。
4.死の受容(意味的基準)
清水哲郎(1977)によれば、わたしたちは、自己の生の意味づけ、死の受容など、自己の状況認識の内容について、公共的に評価することはできない。
東日本大震災は、「なぜ、ある人たちは被害を受け、別の人たちは被害を免れたのか」という疑問(神義論の問い)を突き付けた。その理不尽な被害を前に、「この世に神も仏もいないのではないか」という声も耳に届く。これに対して、「人間の命は神さまに与えられたものだから大切に生きていかなければならない。」と言う人もいるが(日野原重明,2002)、説得的議論だとは思われない。大船渡市の医師・山浦玄嗣は、神義論の問いを問いかけるマスコミに対し、「そんなことは考えもしなかった」と答える。カトリック信者であるにも関わらず、キリスト教におけるこの伝統的問いに向かおうとしないのは不可解である。
「神義論」の議論は、ユダヤ=キリスト教の教理の中でも重要な位置を占めている。しかし、その議論に登場するのは、イエスでも救い主(キリスト)でもなく、旧約の神である。他方、仏教教学が「宇宙の根源に救済を司る超越神が実在し、その計らいが世界を動かしている」(佐藤弘夫)なら、その限りでは、神義論について共に議論することができる。
神義論は、仏教とキリスト教に限定された問題ではない。「それは問う価値がない無意味な問いだ」と問いを拒否するのは、「意味を追求する存在」であることの放棄を意味する。「神様の考えは人間には計りしれない」と問うことを止めるのは、「考える存在」であることの放棄を意味する。神義論の問いに答えるのは難しい。不可能なのかもしれない。しかし、この問いを問い続けることこそが、考える存在である人間・意味を求める存在である人間にとって、目指すべき生き方ではないだろうか。
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