■がんをめぐる変化
今日本人の二人に一人が、がんに罹患し、三人に一人が、がんで亡くなる時代であるが、治療の進歩は目覚ましく生存率が向上した。また緩和ケアの推進、検診による早期発見、予防の普及等で、かつての「がん=壮絶な死」というイメージから、がんは身近な病気、長く付き合う慢性病となり、がんと知ったうえで生活するのが当たりまえ「がんと共に生きる」時代へと変化したと思う。
■緩和ケアに関心を持つようになった出来事
なぜ緩和ケア、がんの終末期の患者さんに関わるようになったのか。緩和ケアの仕事に関心を持つようになった忘れられない患者さんのお話である。1978年頃、スキルス性胃がんの25歳のS君に出会った。仕事を終えてから来たと言って彼は夕方に入院してきた。腹水でお腹はパンパンになり手術は出来ない状態で、抗がん剤治療も痛みに対する治療もなかった。もちろん医療用麻薬という言葉もなかった。痛みは我慢すること、痛みと戦うことが当たり前の時代だった。母親は「がんばれ、母ちゃんもお前を生むときに痛みを我慢して頑張ってお前を産んだ。だからお前も頑張れ」と言って励ました。「私はこんなことしかできない。家庭がなかったことで苦しむ人が少なくて済む」と泣き崩れた。父親も2週間後にがんで亡くなった。それからの私は何とかこの痛み・苦しみを取る方法はないのだろうかと痛みを探求し続けた。
■私の病気体験・自分らしく生きるとは
年齢52歳、病名:乳がん、病は何の前触れもなく突然やってくる。晴天の霹靂とはこのようなことか。しかし私は弱くない、必ず乗り越えて見せるという気持ちだったが5年後の未来は考えられず、笑えない自分になっていた。翌年、ある学会で「病は偶然襲ったという捉え方ではなく、病には一人ひとり大切な意味がある。病からの呼びかけを聴く」ということを教えてもらった。病は一時の運の悪さ、この受け止め方では、喉元過ぎれば熱さを忘れ、ただただこれまでの人生を継続してゆくことになる。人間のスピリチュアルな痛みを知りたいという私の疑問がすこし分かりかけてきたように思った。それから私のがん患者さんと出会う時の気持ちが変わった。
そして病を克服するとは、病を受け止め自分にとっての意味を知り、新たな一歩を踏み出すこと、つまり人生の再生ではないか。自分らしく生きるとは自分の大切にしてきたものをそのまま大切にして生きること、自分の願いを見失うことなく生きることではないかと考えるようになった。
■がん患者会活動の目的と意味
患者会を立ち上げた理由は「患者の気持ちを聴いて欲しい。」と言って亡くなられた乳がんだったAさんの遺言である。同じ病を経験した者同士が分かり合えることがあると、有志で立ち上げた患者会が「四つ葉の会」である。自ら涙した人間が他人の痛みを癒す、人は自らのためだけに生くる者にあらず。人は目的を失うと弱くなる、生きる意味を失うと脆くなる。がんになると嫌でもこの現実が迫ってくる。
平成27年10月「がん患者会・サロンネットワークみやぎ」が設立された。現在24団体が加入しているが、「私たちはピア(仲間)として支え合い、社会と繋がっていきます。私たちは医療者の皆さんと対立関係にはなりません。私たちは医療者と患者を繋ぐ架け橋になりたいと思っています」をスローガンとしている。そして「がんになっても自分らしく生きることを目指して活動する団体である。
宮城県内のがん患者・家族の声を集めて今後望まれる支援などを、行政や医療機関に届けるなど、患者にしかできない役割を果たして行きたいと思う。