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       第140回「生と死のセミナー」
    

 
「看取り方(かた)と看取られ方(かた)
   ~看取る人の納得と逝く人の覚悟~」


      山室 誠 氏
                   東北大学名誉教授
            仙台ターミナルケアを考える会副会長
            医療法人社団爽秋会 岡部医院仙台院長

 

§長寿祈願+極楽往生願望

 臨終に至るまで他人のお世話にならず、長寿で過ごし、病まず、寝付かず、極楽往生したい。
 それは一部のインテリ層が言う安楽死や尊厳死志向などという難しいものではなく、江戸時代か
 ら庶民の間で言われてきた長寿祈願+極楽往生願望と同じで、時代を経ても日本人の死生観の基
 本は変わっていません。

 確かに医療の進歩で長寿にはなりましたが、多くの方が、難しいことは抜きにして現在の長寿が
 庶民の願ってきた幸福に直結していないと感じています。

「ぴんぴんころり=PPKの困難性

元気なままで(=ピンピン)で、ある日急に死ぬ(=コロリ)のは極めて少数の方だけです。多く
 の人(約80%)が70代半ばから自立度が徐々に低下し、なんらかの介助が必要(要介護者、言
 い換えると身体障碍者)になって、最期を迎えると考えて下さい。

◇老後のお金と生活能力(特に排泄):老後に必要なのはお金と考えている人が多いようですが、
 お金に関していうと「マイカーのタイヤの法則」があります。車が走るにはタイヤが不可欠です
 が、余計にあっても、また他人が持っている高級車用のタイヤを持っていても役に立ちません。

 4000万円の貯金がありながら餓死された方が居られました。銀行のお金を引き出して、自分の
 お財布に入れ、お金を衣食住に必要なものに変えて、飲食・排泄・保清・睡眠が確保できて、初
 めて生命がつなげます。多くの高齢者が身体の障害を抱えながら、このラインをつなぐのはお金
 だけでは無理です。さらに最近は一人暮らしの条件として火の始末が加えられましたから、お金
 と火の管理と「暮らし」を信頼して任せられる人の確保が最重要事項です。

 この中で意外な盲点がトイレです。夜間、ポータブルトイレを用いるにしても座位での排尿は必須
 です。しかし幼い時から「立ション」になれた男性は精神的にも実施面でも練習が必要です。も
 しベット上で、屎尿瓶や採尿バックで排尿可能ならば、介護者の負担も減りますし、期間にも寄
 りますが、おむつや排尿時の介護からの解放はかなりの経済効果があると考えられます。

PPK成就のためには事前指示書と看取り時の往診医師

現在の仙台ならば、死にそうになったら延命治療をするだのしないなど言わないで救急車を呼ん
 でそれらしくやってもらってあちらに逝かせるのが最も楽で安全な看取り方です。それ以外の道
 を選ぶためには事前指示書(臨終時の医療について希望事項を記載した書類)と看取ってくれる医
 者の確保が必須ですが、これがなかなか難しいようです。いわゆる普段外来で通院しているお医
 者さんを、俗にいう「掛かりつけ医」だと考えて、看取りを依頼しても来てくださる方は少ない
 ようですから、事前によく確認(約束)しておくことが大切です。

 在宅専門医とは、通院できない方のために定期的に訪問医療を行っている医師を言うのであって、
 緊急時や最期の時にのみ往診依頼をしても来てくれないのが普通です。そこで救急車を呼ぶのが
 無難だということになります(自宅以外で倒れたら必ずそうならざるを得ないのですから)。そ
 の場合も事前指示書を保険証と一緒に(ここが大事、お医者や看護師が治療に夢中になっていて
 も、健康保険取り扱い病院である以上、事務の方など誰かは必ず保険証を探します。そこで東京
 家政大学名誉教授の
樋口恵子さんは名刺に「回復不能、意識不明の場合、苦痛除去以外の処置・
 延命治療は辞退します」日付・署名・押印して後期高齢者医療保険者証と一緒に携帯しているそ
 うです。

 名刺程度のものでも延命治療の有無の記載を見て納得するお医者さんに出会えば延命処置を行わな
 いでしょうし、どんな時にも救命は医者の使命と信じる方なら奉書の指示書が在っても延命処置
 が行われるだろうと考えられます。



§少し情緒的なお話

◇看取るほど解る命の重さかな

死に目に立ち会うのではなく、看取ることが重要だと考えています。
 命の重さが解るには、傍らに佇み、黙って、亡くなっていく過程を見守る、そして全身を耳にして
 聴く必要があると思います。

歌舞伎俳優の海老蔵さんも、奥さんの傍に佇んで押し黙ったまま、微かな息遣いも聞き損じない
 ように聴力を研ぎ澄ませていたと思われます。
しかも、病院ではなくご夫婦で過ごされたご自宅
 での看取りでした。そうすると逝く人と看取る人との間に言葉ではない会話=non vabal    
 communication
で最後のメッセージが聞こえたのかもしれません。

 作家の田口ランディさんは、エッセイで次のように言われておられます。

 死に逝く人と、ただ漫然と流れる時間を過ごすには、まず傍らに腰を据えて佇んで、自分の時間の
 流れを捨てないと耐えられない。しかし、その時間の遅さこそ生命が消えていくリズムかもしれ
 ない。そのリズムに合わせると逝く人の命の振動を体全体で聴くことが出来る。これが最終的な
 「傾聴」の有り様ではないだろうか。

◇失う死と奪われる死

 全く感覚的なものですが、東日本大震災を契機に失う死と奪われる死の違いがあるように感じて
 います。

遺族にとって病による死は喪失体験ですが、事故死・自死などでは剥奪された感じで、震災では
 掠奪体験をされたのではないでしょうか?

 「死に逝く」経過により患者・家族が体験する悲嘆の種類・深度が異なると考えられますが、医療
 従事者が対応出来るのは喪失まででしょう。

医療現場でも奪われた死にならざるを得ない場合があると思います。その中で老衰はおめでたい
 死、がんや病いでの旅立ちは喪失感でとどめることが可能な死だと考えています。

 人間にとってどうしても避けられない死を逝く人も看取る人も、その人なりに受け止めるには、
 その死を「喪失」に留める看取り文化の再構築が必要ではないかと思います。それは、逝く人 
 の「覚悟」と、看取る人の「納得」だろうと考えています。


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リーフレットはこちらから ダウンロードできます↓
遺族の会 ふれあい
ホスピス 110番
仙台ターミナルケアを考える会